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さようなら、石炭列車

1882年(M15)の幌内鉄道開通から数えて138年、
1869年(M2)の茅沼炭鉱軌道まで遡ったなら実に151年ちかくにも及んだ
日本における石炭の鉄道輸送がその栄光の歴史に終止符を打った。

最後は鶴見線 扇町発、秩父鉄道 三ヶ尻行き列車だった。
オーストラリアなどから輸入された石炭は神奈川県川崎市扇町の三井埠頭で貯炭される。
それが埼玉県熊谷市三ヶ尻にある太平洋セメント熊谷工場まで鉄道により運ばれていた。

扇町ー尻手はDE10或いはDE11が牽引。
重たい積載貨車20輌を従えて苦しそうに煙を吐くDE11。

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5783列車 三井埠頭-扇町 Canon EOS5Dmark3 EF24-70mm F4L IS USM

貨車の形式はセキではなくホキ。
積荷の種類よりもホッパ車の構造を強調している。
その代わりに“石炭専用”と車体に書かれ、
最後の石炭用貨車に相応しい出で立ちとなっている。
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晩年は週5日で1往復/日していたが、2往復していた時代もあったと
撮影に来ていたこの貨物列車を担当する運転手さんから伺った。
「いつも運転ばかりで写真を撮ってこなかった、無くなるのでプライベートで撮りにきた」
「入社した時はまだSLも停まっていた」と。

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5783列車 昭和 Canon EOS5Dmark3 EF24-70mm F4L IS USM

通り過ぎる石炭列車の運転手さんがこの方に気が付き、満面の笑みを浮かべるが
相変わらずDE10は苦しそう。

尻手ー熊谷ターミナルはEF65が牽引。
数を減らすJR貨物更新カラーが、石炭貨物最晩年といった雰囲気を良く出している。
工業地帯を突き抜けて走る様子が、高く不規則にそびえる送電線の柱から瞭然。

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5783列車 八丁畷-川崎新町 Canon EOS5Dmark3 EF70-300mm F4-5.6L IS USM

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5783列車 府中本町-北府中 Canon EOS5Dmark3 EF70-300mm F4-5.6L IS USM

高崎線の熊谷貨物ターミナルの到着は22:49。
翌日、20輌のホキが10輌に分割された上でセメント工場まで運ばれてゆく。
セメントの生成に使われる重油はオイルショックの際に価格が高騰、
代替燃料として輸入炭に白羽の矢が立ち、
1980年(S55)に石炭専用のホキ10000が登場している。

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三ヶ尻-熊谷貨物ターミナル Canon EOS5Dmark3 EF24-70mm F4L IS USM

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熊谷貨物ターミナル-三ヶ尻 Canon EOS5Dmark3 EF24-70mm F4L IS USM

2019年は、国内炭の輸送鉄道である太平洋石炭販売輸送臨港線が廃止となり、
2020年は、輸入炭の鉄道輸送が廃止となった。
石炭から石油への転換が図られた原油の輸入自由化から57年、
またひとつ、石炭産業に関する風景が日本から消えてしまった。

さようなら、石炭列車!
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  1. 2020/04/18(土) |
  2. 鉄道
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鹿町炭鉱 -第二坑-

北松炭田において一大勢力を築き上げた日鉄鉱業の炭鉱。
その中でも鹿町炭鉱は第一坑と第二坑が離れた位置に存在し、
他の炭鉱とは別格に鉱区が広い印象を受ける。

日鉄鉱業 鹿町炭鉱 第一坑編はこちら

鉱業所の入り口にはモルタル外装の集合住宅が炭住のように並んでいる。
山の上にそびえる風車は石炭とは違い
クリーンなエネルギー源を主張しているようで皮肉…
住宅のおじいさん、おばあさん達にお話を伺ってみる。
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「昭和32、3年に廃鉱になっちゃっちゃろ(実際は29年)、ここは早かっとっちゃね。
まだいっぱい炭鉱があったと下の方に、
ばってんそのうちで日鉄がとにかく一番太かった。」

「八尺炭二坑言って来よらした。 穴の高さの八尺あったとって。
ここのヤマ止(ヤ)まってから気張る人は日鉄の前加勢、大加勢行ったり
うちの兄貴達は楠泊(クスドマル)しゃんやられた。 親も兄弟も炭鉱じゃ。」

入口の広い空地には1~4年生の小学校があり、いくら近いからと言っても
鹿町炭鉱に勤める従業員の子供以外は入学できなかったそう。
「何しろ子供が多く、5,6年生は上松っつうとこまで行きよった。」
「朝鮮さんも可愛がりよったとよみんな、うちの親たちも。」
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昭和初期に建設されたという住宅街のおじいさん曰く、
「あれがボタのかす場ですよ。積んどる方は大きか方たいね。
こまいヤツは相浦の発電所の原油の中に入れてボンボン燃やしとるわけさ。
火事の都合でインターチェンジ(相浦中里I.C.)の辺りまで灰が降りよったっちゃ。」
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購買会の跡地、住宅街を抜けると
当時の石垣と立派な桜の木がのこる事務所の跡地に辿り着く。
坂を登るとここにも炭住が広がっていたのだが建屋はすでにない。
「竹藪とか全部社宅じゃった…」 おじいさんのお話が思い返される。
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鉱業所の敷地であることを主張する「日鉄用地」と書かれた杭が幾つか立ったまま。
さすがに用地杭までは撤去していかなかったようであるが、
炭鉱無き今となっては貴重な証人。
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病院や風呂屋があったという敷地には建物の基礎のみがのこる。
部屋割がはっきりとわかり、便所や倉庫なども確認できる。
ここから北東側が鹿町炭鉱の広大な用地となる。
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小さな川に架かる、レールを再利用した橋の跡。
かつてはこの先にある山の上に公園と山神社があり、坂の両脇には桜が植わっていた。
そしてミゼット三輪車がこの上を走っていたという。

鹿町炭鉱 第二坑の大いなる繁栄を思い知ることができる遺構は
完全に自然に呑まれており、外からは何も見る事は出来ない。
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選炭場まで降りてくると初期のものであろう素掘りの坑口が現れる。
八尺炭鉱時代のものだろうか?
横には大規模な炭住の痕跡がのこるが残骸さえ無くなっている。
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この辺りは日鉄が土地を借り上げていたようで
借地にもかかわらず「日鉄借地」と書かれた専用の用地杭が設置されている。
何という律義さであろうか…

鹿町炭鉱 第二坑となってからは大きく導線が変わっている。
八尺炭鉱時代のボタ山が撤去された跡地に選炭場が設けられているようだが
その敷地に足を踏み入れると、とんでもない遺構が突然現れる。
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ギリシア神殿を思わせるコンクリートの坑口、
坑道という神聖な場所を建築様式を以て主張しているかのよう。
身構えてあれこれ詮索する必要はなく、
向こうから鹿町炭鉱の威厳を勝手に送信し続けてくる。
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真っ先に目が行くのは中央に煌々と掲げられた紋章であろう。
日鉄鉱業の社章と同じ外枠の中に鹿町炭鉱の頭文字と思われるS
(と思いきや、なんと八幡製鐵所の社章であった)。
恐らく1934年(昭和9年)に日鉄鉱業が参入した当時の坑口である。
このように、「第二坑」ではなく八幡製鐵所の社章を取り付けるあたり、
鹿町炭鉱の原点がここなのだと感じる事が出来る。
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緩い角度の三角屋根形状の笠が載せられ、
紋章を挟む形で角柱が両側に10本ずつ立てられている。
坑門の上部はコーニスではなく、この角柱により胸壁と区別されており、
この坑道が上部の地圧を強靭に支え得るという安心感が感じられる。
縦線のルーバーは建造物ををワイドに見せる効果もある。
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両端には不思議な形状をした門柱が奢られている。
三段に分けられた円柱はそれぞれがエンタシスつまり中央が膨らんだ造形。
円柱同士の繋ぎ目には丁寧に三段の輪が付けられ手が込んでいる。
柱頭に飾りがないのでさながらドーリス式といったところか。
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向かって左側の門柱は、壁に接している関係上、
若干造形が甘くなっている。
これらはあくまでも門柱であり、屋根を支える柱とは
異なる思想によって取り付けられている。

最大の謎は坑口開口部の形状である。
ブロックの塞ぎ方を見ると台形もしくは長丸半円のように思われるが…
ちなみにブロックの上から更に補強のコンクリートを中途半端に塗り付けている。

すぐ右側には素掘りの斜坑が不気味に佇む。
同様にブロックの上からコンクリートを塗り封止している。
素掘り坑口の中ではトップクラスの広さである。
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封止コンクリートが風化し、内部を確認する事が出来る。
大味に削られた坑口は漆黒の地中深くまで続いている。
隣の坑口とはどの程度下ったところで合流しているのだろうか…。
これら2つの坑口が同時に使用されたのか、
或いは切り替えられたのかはわからない。
同時に使用されたとすると前者が連卸だろう。
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離れた位置には排気坑の設備を持つシンプルな斜坑も生き延びている。
こちらはコンクリートブロックではなく、岩で封止されている。
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使用停止の時期が前述の2坑口と異なるのかもしれない、
というのもこの排気斜坑と2坑口の方向が180°異なっている。
どちらかがスイッチバックしなければこれらの坑道が交わることがない。

集められた石炭は隧道をぬけて鹿町一坑へと運ばれていく。
隧道は土砂が崩れ跡形もない。

1912年(大正元年)第一坑よりも早く第二坑は鹿町炭鉱として拓かれる。
「八尺」と名付けられているが試錐の誤認であり実際の炭層は八尺もない。
1917年、大倉組と共同経営を開始。
第二坑は1954年(昭和29年)の閉山である。

国内の製鉄技術を向上させる足掛かりとなった鹿町炭鉱 第二坑。
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現在では穏やかな時間の流れる山林に変化してしまったが
所々に残る遺構や人々の記憶から当時の賑わいを想像する事が出来る。
そのような時間はとても贅沢であり、そのような場所はとても貴重である。
  1. 2016/05/08(日) |
  2. 炭鉱-長崎
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軍艦堤防

福岡県 北九州市 若松区 響町

戦時中もしくは終戦後にほとんどが破壊されたため、
まともに残るのは三笠、宗谷(特務船)だけであろう日本海軍の軍艦。

そんな状況の中で、堤防として使用するために沈められた軍艦が存在する。
1917年(大正6年)に竣工した駆逐艦「柳」である。
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甲板上の構造物は撤去されてはいるが、
堤防のコンクリートから飛び出す錆びた金属は
明らかな船首の形状を維持している。
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船尾側もはっきりと形状がわかるが
甲板上にもコンクリートが流されているため輪郭しかわからない。
艦橋などは撤去された上でここに沈められたのだろう…
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戦後間もない昭和23年9月に、他の駆逐艦「冬月」「涼月」とともに
洞海湾を響灘の荒波から守る防波堤として沈められた。
(北九州市港湾局説明板より抜粋)

1917年(大正6年)5月 佐世保海軍工廠竣工「桃」型二等駆逐艦
6月 第二特務艦隊第15駆逐隊、地中海へ
8月 マルタ島到着、英海軍と共に通商保護作戦に従事
1918年3月 仏、輸送船「ラ・ロアール」を救助曳航 500名以上を救助
1919年6月 横須賀港へ帰還
1940年(昭和15年)4月 佐世保係留 除籍
(北九州市港湾空港局説明板より抜粋)

近年、柳の周囲をコンクリートで固める風化防止策が施された。
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このような形で末永く保存されることになろうとは
当時の人々は予測できたであろうか。
いずれにせよ大変貴重な戦争の証言者である事には違いない。
  1. 2016/02/18(木) |
  2. 戦争遺跡
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Erin 炭鉱 -第3立坑-

Germany Nordrhein-Westfalen Recklinghausen Castrop-Rauxel.

Essen と Dortmund の間に位置する
Castrop-Rauxel において最初に拓かれた炭鉱であり、
最後まで稼働した炭鉱でもある。

Erin 炭鉱 第7立坑編はこちら

第7竪坑櫓がそびえるコークス工場から東側に位置する住宅街に足を向ける。
度重なったガス爆発に対しての対策として1889年から1891年の間に第3立坑を掘削。
通気目的の立坑だが当初は鉄骨の櫓を建設していたという。

1929年、老朽化したヤグラを置き換える目的で、新製ではなく
何故かハンマーヘッドのヤグラを他の炭鉱から移築している。
ルール地方の炭鉱では珍しいケース。
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緑豊かな公園にそのヤグラが保存されている。
元はドルトムントにある Westphalia 炭鉱の第2竪坑櫓であり1917年に建設されている。
第7ヤグラ同様、白く大きな文字で「ERIN SCHACHT 3」と書かれているが
Erin 炭鉱の所有になった事を主張しているかのようにも見える。
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最上階左側に巻揚機が存在しているのだが、丁度真下に当たる位置に、
建物をはみ出す矢弦車のカバーが取り付けられており面白い。
スマートで整ったヤグラだが、やはり内部は窮屈なのか…
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北側に回り込むと意外にも複雑な造形を目の当たりにする。
内部には確実にケージがあるはずだが
4方向すべて煉瓦の外壁に覆われており様子がわからない。
エアーシャフトでありどこかに扇風機が付随するはずなのだが…
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ERIN SCHACHT 3 かと思ったがこちらは1887年から経営した
「GELSENK. BERGWERKS AG」と書かれ、ひと捻りが面白い。
Gelsenkirchener Bergwerks AG (GBAG)は閉山まで Erin 炭鉱を経営。
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外壁は煉瓦造りだが、「UNION D.N.30」と書かれた鉄鋼材のフレームが使われている。
鉄鋼王と呼ばれたAndrew Carnegie 経営のユニオン製鉄所かと思いきや
どうやらドルトムントのUNION AGという会社らしい。
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三角屋根の住宅地に三角屋根のヤグラが自然に溶け込んでいる。
給水塔の様なスマートさでもあり、
瓦屋根ではないが日本の帝冠様式のような威厳も感じられる。
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ドイツ国内にはいくつか煉瓦造りのワインディングタワーがのこされるが
同じ形状のものは2つとない。
それぞれ意匠に特徴があり面白い。
すべてが近距離に集まっていれば有難いのだが…
  1. 2016/02/10(水) |
  2. 炭鉱-DE
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鹿町炭鉱 -第一坑-

長崎県 佐世保市 鹿町町

周辺を写したひと昔前の航空写真を見ると、
他を圧倒する巨大なボタ山が目に留まる。
松浦炭田において一大勢力を築き上げた日鉄鉱業経営の
鹿町炭鉱 第一坑の輝かしき勲章である。

現地に赴いて確認してみる。
あれ程の巨大なボタ山であっても
50年以上も経てばただの山にしか見えなくなる。
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長年かけて覆い尽くした木々と、
風雨に洗われて崩れてしまった形状のせいか。
ボタ山の崩落が懸念された時期もあったようで、
負の遺産として扱われる場合もある。
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ボタ山の麓に残るシックナーや原炭ポケットの存在がせめてもの救い。
冬でも青々と生える野バラのトゲを掻き分けて原炭ポケット直下まで来てみたが、
レールなどはすでに撤去されている。
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残存物はこれだけと思いきやボタ山とそのポケットを結んだ直線上には
レアな形状の坑口が現在までのこされ続けている。
鹿町炭鉱においてメイン坑口の1つであった東坑である。
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1つの胸壁に2つの半円坑口が開くタイプは
北海道の美唄炭鉱でも見る事が出来る珍しいものだが、
それぞれの坑口に扁額が付くという更に上をゆく変わり者である。

三井鉱山 美唄炭鉱はこちら

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向かって右側は「東坑」と書かれた扁額を掲げる。
2つの坑口を指して東坑なのだろうが…
接近しての確認は出来ないが、はめ込まれた扁額は金属製とみられる。
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滑らかにR処理された坑口の縁に丁寧に塗られたモルタルが様になっている。
ひと口に日鉄といっても鉱業所によって坑口のデザインはこうも異なる。
(日鉄神田炭鉱のシンプルな坑口などと比較して)
失礼ながら「やれば出来るじゃないか!」と上から目線で呟く。
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向かって左側は「本ヶ浦捲道」と、地名と用途が名付けられている。
何ゆえに「東」と「本ヶ浦」別表記なのか解せないが
坑口名と坑道名なのかもしれない。
捲の文字は斜坑の証、これらは確実に斜坑であろう。
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両坑口の間には鉱山マークが描かれた丸い金属板が付けられており
その下には神棚を祀っていた跡がのこる。
後で知ったが鉱山マークは日鉄鉱業の社章である。
扁額とは別の位置に社章が付いた坑口は同県の栢木炭鉱と並び貴重。
この坑口のレア度がまた1フクダジマポイント上昇した。

栢木炭鉱はこちら

全体に目を向けてみると、3段の笠が左右目一杯に渡され、
両端には太い壁柱が形成されている事がわかる。
更に胸壁には綺麗な弧を描く一筋の曲線が彫られている。
これらの装飾が2つの坑口を違和感なく調和させ、全体を引き締めている。
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他炭鉱にない独特の美的センスを持つ東坑は
ここでしか観ることが出来ない貴重な資料、
のこして下さった地域の方々に感謝である。
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坑道を塞いだブロックからは絶えず坑内水が流れ出す。
この水は水源として利用されており、
幸運にも坑口がのこされる事になった理由である。
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「魂はもうおられんけどね…」と教えて頂いた山の神様の祠には
マルに山と書かれた意味深な紋章が確認できる。
コンクリート製の祠は頑丈であり原形を保っている。

これ程豪儀な坑口なら本坑と呼ばれてもよさそうだがあくまでも東坑、
理由は他にも出炭を行っていた大きな本卸坑口が存在するから。
東坑開坑以前は専らここから採炭されてきたのだろうか、
埋もれかけた第一坑が今でも扁額を掲げている。
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正真正銘、鹿町一坑を代表する坑口だが、
かつての本卸坑口も時間が経ってしまえばご覧のとおり。
ただの落とし穴になってしまっているこの悲しさ…
どうにかのこり続け、輝かしい採炭の歴史を語り継いで欲しいもの。
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内部はしっかり封止されているが断面が単純な半円ではない事がわかる。
見た目以上に坑道の幅は広く、かつての本卸の面影を十分表している。
現役当時は複線のトロッコ線路が敷かれている。
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「坑口から排水された坑内水は上の貯水槽に一旦集められ
日鉄が掘ったあのトンネルから出てきよった」
と元坑夫のおじいさんに教わる。
ケーブルの名残も確認できるが現在はただの川である。
東坑に対して西坑はこのすぐ隣だが跡形はない…

ここに食堂が…炭住が…と教えて頂くも、ただの荒地にしか見えない。
おじいさんの脳内映像を見る事が出来たならあまりの変貌に驚くに違いない。
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付近の段々畑の先には火薬庫が確認できる。
爆発事故の被害を最小にする目的で築堤越しに建てられており
本ヶ浦など他の日鉄炭鉱でも同様の造りがみられる。
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しかしこの近くにだけは住みたくない…

大加勢地区の炭住街へ降りてみる。
目抜き通りや整然とした長方形の区割はそのままだが、
新しいRC造りの住宅が建ち並ぶ。
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炭鉱稼働時代を知る、突き当たりの西肥バス営業所はすでに撤去されている。
「映画館も発着場ももう何ものこっとらんよ…」
永遠に戻らない過去の風景であり同じ場所に立ち感慨に更ける他ない…
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新作映画の封切日だろうか、賑わいし昔日の写真を見せて頂く。
居住スペースが併設されたバスセンターや発着場は
近年急速に数を減らしている。
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昭和初期~中期の建物が注目され遺産に認定されるには
あとどれだけの時間が必要なのだろうか…。
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積出港の区画はそのままだが設備は皆無、
大型船が横付けされていたとは信じがたい程静か。
写真は大加勢第一埠頭であり、横の跡地には小学校が建設されている。

1920年(大正9年)に浜野冶八より八尺炭鉱を、
鹿町炭鉱株式会社より大加勢炭鉱を政府が買収し、
官営八幡製鉄所二瀬出張所の所属とする。
1926年、加勢鉱(鹿町一坑)を開坑。
1927年(昭和2年)二瀬鉱業所、1936年鹿町支所へ昇格、
1939年には日鉄鉱業北松鉱業所となる。
当初は池野炭鉱の管轄であり、
1945年に独立したが、翌年政府の命令により再び北松鉱業所となる。
鹿町町の人口は1950年に2万人を越えたが、
1963年の閉山後、8千人弱となり元の静かな町に戻ってしまった…

松浦炭田と言えば日鉄鉱業株式会社。
大きな炭鉱であっても徐々に面影を失ってゆくが
のこされた遺構の一つ一つからはこの地域の主である威厳を感じる事が出来る。

日鉄鉱業 鹿町炭鉱 第二坑編はこちら
  1. 2016/02/01(月) |
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